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新橋で3.11を振り返る-当日、復興、現状、そして防災へ

新橋でも各々が黙祷するなど14時46分を迎えた(写真=福島県南相馬市小高区、撮影=新橋経済新聞記者・藍智子)

新橋でも各々が黙祷するなど14時46分を迎えた(写真=福島県南相馬市小高区、撮影=新橋経済新聞記者・藍智子)

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 東日本大震災から今日で2年ーー新橋の人々に震災当日や復興、防災などについて振り返ってもらった。

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 震度5の揺れを観測した新橋では大勢の帰宅困難者を出し、古いビルの一部では、亀裂が入ったり、インフラに障害が出たりするなどの被害も見られた。その後も長期にわたって飲食店へ大きな打撃を与えるなど、影響は少なくなかった。

 新橋5丁目で印鑑店「えんえんリンク かたちや店」を営む木下敦夫さんは、震災以降、店にも自宅にも防災セットを備えている。「当日はスタッフと店にいた。店内は3人ほどお客さまもいたが、1階だったせいか、被害はなかった。とはいえ私もスタッフも家に帰ることはできず、店で夜を明かした」と振り返る。スタッフの女性は自転車で新橋中を走り回り、情報を収集した。木下さんは、福島の避難区域へ動物レスキューに行ったこともあり、震災を生で感じているという。「有事の時は助け合いが必要。店は狭いが、多少の備蓄もある。困ったら来てほしい」。

 新橋などでビルや飲食店を経営する田中至さんは震災直後、経営する店やビルを車で巡回した。交通はまひし、「東京駅から蒲田まで7時間もかかった」(田中さん)。経営する全ての飲食店は、帰宅困難者のために営業時間を無視して開け続けた。「そういった状況下での炊き出しはすぐに底を突いてしまう。営業し、受け入れることが最善と判断した」。 日頃から「むやみな移動は危険、動かないように」と従業員に言ってきたという田中さん。経営するビルには、貯水槽や発電機を備える。「飲食店もあるので食料も当座は確保できる。あとは現場の指揮官がしっかりすること」と話す。

 新橋では震災直後、利用客が激減したため、この2年で多くの飲食店が入れ替わった。価格の安いスタンディングバルの増加が目につく。田中さんは「アベノミクスで外食産業も良くなってきている感じはするが、消費が上がりきるまでには時間がかかる。飲食店はそれまで持ちこたえる体力が必要。低価格競争でやっていけるのか、気にかかる」と案じる。

 ニュー新橋ビルに入居するいわき市東京事務所では震災以降、あらゆる対応に追われた。港区はいわき市と「商店街友好都市との交流に関する基本協定」を締結していることから、直後から支援を開始。同市職員の早川憲明さんは、「物資の運搬から人的援助まで、港区の支援は本当にありがたかった」と当時を振り返る。現在も2人の港区職員が1年スパンでいわき市に出向しているほか、さまざまな復興イベントを港区内で設けている。災害協定締結への動きもあるという。

 現在、いわき市の人口は33万人。「震災後、若干減少している。県外への自主避難者は、把握しているだけで7800人ほど。逆に浜通りからの避難者は2万4000人いる」。復興はソフト面からハード面への動きが増え、今後は被害エリアでの都市計画の再生が行われる見込み。産業も少しずつ上向きになっているという。「スパリゾートハワイアンズはおかげさまで今期は黒字。これまであまりなかった企業による団体の宿泊客が増えているようだ」と早川さん。「農産物への消費者の対応は二極分化している。これは仕方のないこと」とも。

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