40年近く同じ場所で営業を続けて来た無国籍スパイス料理「SPICE HOUSE PePe(ペペ)」(港区新橋3、TEL 03-3431-4886)が6月25日、その歴史に幕を閉じる。
同店は1970年代にオープン。当時から現在まで、オーナーシェフの斉藤秀二郎さん(69)が料理から運営・経営を手掛けて来た。斉藤さんは以前より「70歳になったらセミリタイアする」と決めており、店の規模を縮小するため新橋の駅近くへの移転を検討していたという。しかし、契約の関係で急きょ6月いっぱいで退去しなくてはならなくなりなり、期間内では条件の合う新天地を探すことができなかった。「閉店は不本意」と、斉藤さんは悔しさをにじませる。
斉藤さんは新橋生まれの新橋育ち。女手一つで商売を成功させた明治生まれの母の背中を見て育った。母は新潟から子守奉公で上京。その後、銀座にあった有名すき焼き店で女中頭を務め、新橋駅前、現在「新橋シャモロック酒場」「魚金4号店」のある場所に土地を買った。戦後、闇市となったその土地で食堂をオープン。食料統制により禁止されていたみそを新潟の実家から「みそ漬け」として送ってもらい、みそ汁を作って販売した。「みそだるの表面だけがみそ漬けで、下は全部みそ。『みそ漬けの残りを溶いて売っている』と言い訳し、認可されていた」と斉藤さんは回顧する。みそ汁は人気を博し、朝晩長蛇の列ができたという。
10年ほど続けた闇市の食堂を、母はすき焼きをメーンにした日本料理店に転換。芸者を呼ぶような料亭となった同店は、著名人も来る人気店に成長した。その店は斉藤さんの兄が譲り受けたため、母は将来タバコ店をやろうと考えて購入した駅前の2.5坪の土地を斉藤さんに与えた。兄は間もなく料亭をつぶしてしまったが、斉藤さんはその小さな土地で牛めし店「五条」と、その並びの2坪しかない店舗(現在の「闇市ジョニー」)で喫茶店「五条」をオープン。「日本一小さな喫茶店」「1杯から出前します」というコピーとアイデアで繁盛した。店名の由来は「2.5坪(=5畳)の土地だったから」。その店名は社名となり、現在も残る。
並行して週末は目黒の喜多能楽堂でケータリングによる食堂を運営し、成功。「ホテルのルームサービスのノウハウとケータリング用の食器があったので、大きな会議にも対応できる出前喫茶サービスができた」と振り返る。70年代に、牛めし店のあった土地が高額で売れたことから牛めし店・ケータリング・喫茶店をやめ、「PePe」をオープン。店名は、「ペッパー」(コショウ)の愛称。前年暮れに牛めし店のゴミ捨て場で拾った生後間もない子犬に付けた名でもある。薬膳を基本としたスパイス料理を出すバーとしたのは、これまでのキャリアの集大成。
斉藤さんは大学で経営学を学び、その後、酒を学ぶために1年専門の学校へ入学。卒業後、ホテルニューオータニのメーンバーでバーテンダーとしてキャリアを積んだ。「そこの厨房で同僚のシェフたちがハーブやスパイスを使っているのを見て興味を持った」。本格的にスパイスを学ぶため、インド料理の師匠に付き、インドへも行った。中国・山東の薬膳学校通信教育も受講。その後、シェラトン都ホテル(港区)の中国料理総料理長に付き、現在も本場の薬膳と中国料理を学び続けている。
斉藤さんの作る本格的な料理を目当てに通う常連も多い。常連の会社員・銀さん(38)は「置き箸・置き丼ぶりもしている。料理が食べられなくなるのは残念」と閉店を惜しむ。常連客が薦める定番メニューは、18種類のスパイスで煮込んだオリジナル料理「チキンマサラ」(1,300円)や、「四川坦々麺」(1,000円)など。「何を食べてもおいしい。マスターに『おなかがすいた』と言うと、適当に見繕って出してくれる賄いや裏メニューも楽しみだった」と銀さん。
斉藤さんは、これまで約50年、朝5時まで営業するという昼夜逆転の生活を送って来た。「母もそうして自分たちを育ててくれたから。母は朝学校へ子どもを送り出してから就寝。学校から帰るころには起きて迎えてくれ、晩ご飯、お風呂が済んでから夜仕事に出ていた」。現在は逗子にある自宅から新橋に通う斉藤さん。1998年には鎌倉にも「SPICE HOUSE PePe 鎌倉店」を出店し、成功を収めた。新橋本店閉店後は鎌倉店に立ちながら、新橋へ戻るチャンスをうかがうという。「やはり最後は新橋で人生を終わらせたいから」。
営業時間は17時~翌5時。土曜・日曜・祝日定休。最終日となる25日の営業時間は未定。