新橋のすき焼き専門店「今朝(いまあさ)」(港区東新橋1、TEL 03-3572-5286)が9月10日、創業130年を迎えた。同店は初代当主・藤森今朝次郎さんが1880(明治13)年に始めたもので、現在は5代目の藤森朗さんが継ぐ。
初代・今朝次郎さんは1872(明治5)~1873(明治6)年ごろ信州から上京。銀座のすき焼き店「今広」の創業メンバーとして修業した後、新橋に店を構えた。店舗面積は約40坪。現在同所は地下1階、地上9階建ての「今朝ビル」になっており、店舗は2階で面積は132坪。
当時のすき焼きはみそ仕立てが多い中、同店のすき焼きは現代と同じしょうゆ味。鶏肉料理も扱っていた。店には風呂の設備もあり、客は風呂を使い浴衣に着替えて食事を楽しんだ。店のあった芝口(現在の東新橋)は東京湾と内陸を結ぶ水上交通路のターミナルで、風呂のある店は東京湾で釣りを楽しんだ人々の需要があったという。
今朝次郎さんは創業20年目に46歳で逝去。店は従兄弟で養子縁組を行った勝三郎さんが継いだ。1922(大正11)年、新橋駅前のビルに支店として「IMAASA」という洋食店もオープン。翌年には「今朝商業株式会社」という社名で株式会社化した。「130年続いたのは経営の才覚があった2代目の功績が大きい」と4代目の藤森紫朗さん。
翌1923(大正12)年、関東大震災で本店が焼失。バラックの仮店舗での営業を余儀なくされた後、1925(大正14年)に鉄筋のビルになった。そのころから昭和にかけ、同店は軍人景気もあり、最盛期を迎える。「姐(ねえ)さん」と呼ばれる仲居も60人に。ほぼ全員が住み込みで、専任の髪結いもいたという。
当時は出前も行っていた。遊び人だった2代目は、銀座や新橋の花街に出掛けると、今朝からすき焼きの出前を取ったという。その活動が今朝の名を広めることに貢献した。1930(昭和5)年、30年代表を務めた勝三郎さんが引退。長男の朝雄さんが3代目を襲名した。
桃山風の純日本建築に改築したばかりの翌年、第二次世界大戦が、1941(昭和16)年には太平洋戦争が開戦。1944(昭和19)年、疎開命令が発布され休業となった。翌年3月に起こった東京大空襲では奇跡的に難を逃れるが、空襲による延焼を防ぐため建物の取り壊しが命ぜられた。終戦は取り壊しの10日後だった。
疎開から戻ってみると、残っていた鉄筋コンクリート製の冷蔵庫を不法占拠して中華料理屋が営業していた。別の場所で再開しようにも、日本人には飲食店経営の許可が下りず、苦肉の策としてインドネシア人の名義でジャワ料理店兼すき焼き店として再出発した。当時の新橋駅周辺は闇市の集散地。権利回復には10年余りかかった。
東京オリンピックが開かれた1964(昭和39)年、現在の今朝ビルを建設。その翌年、紫朗さんが4代目に就任した。5代目の長男・朗さんは大学卒業後、ドイツに渡航。現地では飲食業に従事し、1990年に帰国、今朝ビルで「ビストロベルラン」を開いた。蓄音器で音楽の聴ける店としてマニアに喜ばれていたが、2007年、5代目就任のため閉店。
蓄音器をはじめ、78回転レコード、オペラ、文楽、歌舞伎、正字旧仮名、飛行船など多趣味の朗さん。文章は旧仮名遣いで書き、明治時代のような口ひげをたくわえる。「古い鍋や器、写真などを見て育ち、百年前からつながっている自分の不思議を感じた。それで歴史好きになったのかも」と話す。店内には代々引き継がれた美術品も飾り、学芸員の資格も取得した。
ソムリエの資格も持ち、ワインとすき焼きの組み合わせも探求する朗さん。一般的に赤と合わせるが、「ブドウ果実本来の甘味をもったドイツのリースリング種、浮き立った果実香が抑えられ、複雑味が増した国産交配品種マスカット・ベリーAの熟成したものなど意外な組み合わせはなかなか合う」ことがわかったという。
130周年の記念行事は行わないが、朗さんのブログを読んだ人へは食前酒を提供する。
営業時間は、ランチ=11時30分~14時、ディナー=17時30分~21時30分。土曜・日曜・祝日定休。食前酒の提供は9月末まで。